患者さんと
ご家族へのインタビュー
〜血友病と生きる
私たちのいろんな気持ち〜

『消去法の思考』で自分の得意分野を極めていきたい。-塩田博之さん(社会人)と婚約者の新倉恵さん(1/5)

あらゆる可能性からできないことを差し引いて、残ったできることを頑張る――『消去法の思想』でいろいろな困難を乗り越え、自分の得意分野を極めていきたい。 塩田博之さん(社会人、関東在住)と婚約者の新倉恵さん

自宅や学校の保健室に製剤を常備。
高校生からは自分で補充療法を行うように。(塩田さん)

小さな頃のことはほとんど覚えていませんが、血友病Aの重症型だと診断されているので、おそらく生まれて間もない頃から補充療法を受けていたと思います。当初は病院を受診していましたが、小学校に入ってからは、中学校、高校を含めて学校の先生らに病気のことを説明し、自宅の冷蔵庫の他に学校の保健室の冷蔵庫にも製剤を常備し、出血が起きた場合、あるいは痛みや違和感などがあり出血の可能性がある場合は、その場で補充療法(家庭療法)を行うようになりました。

小・中学生の時は、自宅では親が、学校では保健室の先生が輸注してくれていました。遠足や修学旅行の時には、万一に備えて保健室の先生が製剤をクーラーボックスに入れて付き添ってくれました。自己注射は中学時代から少しずつ親に教えてもらいながら練習を始め、高校生からは自宅でも学校でも自分で輸注するようになりました。

その頃は定期補充が新しい補充療法でインヒビター発生の問題が危惧されていたことから、出血する可能性のある行動をする場合の予備的補充療法と、出血が起きた時、あるいは痛みや違和感などがあり出血の可能性がある場合の補充療法を基本としており、定期補充療法は行っていませんでした。

幸い、性格的に外で走りまわって遊ぶタイプではなく、室内で本を読んだり、ブロック遊びをしたりするタイプだったので、大きなケガをしたことはありません。ただ、それでも左足首が痛くなり(関節内出血)、そうこうしているうちに右足首も痛くなって歩けなくなり、松葉杖を使うということがしばしばありました。親からは「左足首が痛くなったらすぐに輸注するから教えてね」と言われるようになり、実際そうすれば、右足首が痛くなったり歩けなくなったりすることがなくなりました。それで、自己注射ができるようになってからも、左足首が痛くなれば安静、冷却(湿布)、圧迫(サポーター)などに加えて、すぐに自己注射するようにしています。

今も定期補充療法は行っておらず、予備的補充療法と出血時補充療法が主体ですが、関節などに障害がなく過ごしています。その背景には親や学校の先生、友だちなど周りの病気への理解と私への支援もあるからだと思っています。

学校では血友病であることをカミングアウト。
友だちから助けてもらえることが多かった。(塩田さん)

「自分は他の人と比べて、血が止まりにくい病気だ」ということを自覚するようになったのは小学生になった頃です。学校の先生に対しては、親からも私の病気のことを伝えていたと思いますが、私は私で、小学校や中学校、高校のクラスメイトには、「僕はケガをしたら、死ぬ体質です」、「僕は車にひかれたら、すぐに死んでしまうタイプです」などと冗談まじりに病気のことをカミングアウトしていました。

病気をカミングアウトできたのは、親が病気をポジティブにとらえるタイプだったからかもしれません。また、私の通っていた学校が、あるいは私の学年が、あるいは私のクラスが、てんかんや喘息、アトピー性皮膚炎などを含め、「自分はこういう病気だ、体質だ」といったことをカミングアウトしやすい雰囲気だったからかもしれません。

いずれにしろ、私は病気のことを友だちにカミングアウトすることにより、さまざまなサポートを受けることができました。小学校や中学校では、友だちと喧嘩になりそうになった時にはリーダー的な存在の友だちが、「塩田は、弱いから殴っちゃだめだ」と仲裁に入ってくれたり、遠足で山登りをした時にはみんなが私の荷物を持ってくれたりしました。