冊子「Friends」
【血友病体験談】みんなどうした?学校生活〜日々の出来事

学校生活

小学校低学年まで送り迎えが必要と言われたが、両親が働いていたので、自分は友人宅に帰り、そこに親が迎えに来るといったことを続けていました。その後は自分の判断で一人で登下校していました。(30代本人)

幼稚園から高校まで一回だけ親が呼ばれました。高校で頭をぶつけた時でした。それも念のためといった感じでした。(20代本人)

小学校では貧血気味ということになっていて、朝礼では校長先生の隣に椅子を置いて座らされ、とても嫌でした。三年生から担任の配慮でみんなと列に並ぶようになりました。(30代本人)

僕の高校では二年生の夏休みに一ヶ月のホームステイがありました。初めての海外だったし、止めることも含めて迷いましたが、病院の人とも話し合って、ステイ先近くの病院を調べてもらったり、税関用の診断書(注:薬、注射器などを持ち込むので理由を尋ねられることがある)を用意したりして、製剤もちょっと多めに持って行ったり・・・。親もいざとなったら製剤持って乗り込むつもりでパスポートの準備をしていました。行ってからステイ先に、こわごわ、話したのですが、別に何の問題もなく受け入れてくれました。その点では日本よりいいかもしれない。語学力の不足の方が困った。(10代本人)

小学校も高学年になると教室は三階とかになるし、どこでも音楽室とか図工室とかは離れたところにあるんですよね。普段はいいんですが、関節が調子悪いときには、その移動がとても辛かったです。特に下りは大変。体育は見学してしまえばいいんですけど、音楽や図工は見学なしですからね。(10代本人)

小学校でも幼稚園でも担任や養護教諭が替わるたびに、ずいぶん対応が違って困りました。ある先生はちょっと転んでも電話してきましたし、ある先生は目の下に大きな痣ができても何の連絡もありませんでした。(30代母)

幼稚園のときは何かにつけて呼ばれたようですが、小学校では呼ぶか呼ばないか、自分に尋ねてくれたので、ほとんど呼ばないと返事していました。たとえ足を引きずりながら帰るようでも他の子と違ったことはしたくありませんでした。(30代本人)

中学、それも受験が近くなると、中間や期末試験は絶対に休めない。直前に出血してヒヤヒヤしたことも何度かありました。いざとなったら病院から車椅子に乗って親に学校に送ってもらうつもりでした。何とかしのぎましたが、結構、痛くて集中できなかった。試験前は特に注意しなくちゃいけません。(20代本人)

Column5
「血液凝固異常症のQOLに関する研究」の<結果からみえてきたこと
血液凝固異常症のQOLに関する研究とは?

血友病患者さんと家族の生活の質の向上を図る目的で、数年一度に調査が行われています。これは厚生労働省の科学エイズ対策研究事業「血友病の治療とその合併症の克服に関する研究」の分担研究として、血液凝固異常症QOL調査委員会が担当して実施し、報告書にまとめられています。
平成23年2月に発行された「血液凝固異常症のQOLに関する研究」調査報告書が最新のものです(平成23年7月現在)。報告書では、なかなか知り得ない他の患者さんの生活の一端が見られ、多くの患者さんと家族が参考にしています。それだけでなく、血友病専門医らが、国に対策を求めたり、医療体制を考えたりする際の出発点にもなっています。

Column6
「血液凝固異常症のQOLに関する研究」の結果からみえてきたこと
学校で出血した時どうしてる?
学校で出血した時どうしてる?

67.8%の人が直ちに注射を行っている反面、2割近くの人は学校が終わるまで我慢すると回答しています。その人毎の我慢強さや出血量が違うせいもあるかもしれませんが、周囲に病気を知らせているか否かによっても、迅速な止血の処置の可否が決まるのかもしれません。

Column7
母の授業

ヒデが6年生の時の話です。小学校1〜2年の時はよく膝や足首に出血を繰り返して、本当に大変でした。治ったと安堵したのもつかの間。また同じところに出血を繰り返すありさま。あんまり続くので、知り合った同じ病気のお母さん方に相談したところ、専門医への受診を勧められました。ところが小学校3年なのに関節の状態があまり良くないと言われてしまい、ショック。痛みが減れば注射しなくもいいという誤解、おとなしくしてれば“安静”と思っていた大きな間違え、少々腫れていても登校させたことへの後悔もありました。出血後に松葉杖を使うようになったのもこの受診がきっかけです。もっとも成長すればするほど運動量も体重も増し、みんなとサッカーやドッジボールもやってしまうので、出血はなかなか減りません。

先生や友だちの関係はうまく行っていました。私も入学直後からPTA役員を積極的にやり、親しい母親仲間を作っていたこともありましたし、病気についてもクラスに話してわかってもらっていたことも良かったと思います。3年でクラス替えになった時には偶然に障害のあるお子さんも同じクラスになり、担任の先生が「いろいろな仲間がいるので、皆、大切に仲良くしていきましょう」とおっしゃってくれて、ヒデは松葉杖を時々使いながらも本当に楽しく過ごせていました。

そんな学校生活がつまずいたのはヒデが5年になってすぐでした。松葉杖を嫌がるようになったのです。訊いても「大丈夫、何でもない」とボソっと一言。その頃、私がとても忙しかったこともあって、最初は「うちも反抗期がはじまったか」程度に考え、気にしていなかったんです。

しかし学校から裸足で帰るようなことが何度かあり、不審に思った私が「大丈夫」というヒデのスボンを強引にめくってびっくり・・・。パンパンに腫れているではありませんか。「松葉杖もつかないで、こんなになるまでほったらかしにして」と叱り、注射をして二日間、学校を休ませ、おさまったところで松葉杖を持たせて送り出しました。それからしばらくは十分に注意していたため、出血がひどくなることはありませんでしたが、表情は徐々に暗くなる一方です。とうとう楽しみにしていたはずの校内行事の日には泣きそうな顔で下校してきて、その日は夕食もほとんど食べません。

「何かあったの?」
「別に…」
「言いなさい!」
「知らない、何もない」
「何にもないことないでしょ!あんなに楽しみにしていたのに。」
「うるさいな!」
「何もないなら、うじうじするな、情けない!」

子どもは誰に似たのか意地っ張りなところがあり、一筋縄では話してくれません。こんな時にはいつも挑発して怒らせて話をさせるのが私の常套手段。このときも成功しました。
重い口を開いて語ってくれたのは、5年になってから、松葉杖で行くと友だちに取り上げられて遊ばれてしまい、使えなかったり、病気というと「お前は都合の良い病気だ」とはやし立てられたりしていたというのです。
元気な時はドッジボールをして、翌日には松葉杖で体育や掃除を休む、そんな姿が子どもたちには理解できなかったのでしょう。その日も各学年、各クラスを回って展示物などを見る行事なのに、ヒデは「お前は足が悪いんだから店番だ」と言われ、一日中教室で座っていたのだそうです。聞いた私はとっさに何と言っていいか分からず、「そうか、まあ、しゃーないな」みたいなことを言って終わりにするしかありませんでした。でも、心の中は“さあ困ったぞ、どうしよう”話しを終えました。

考えてみれば、1〜2年のクラスには説明し、3〜4年の時も先生の理解があった上、元クラスメイトも、知り合いのお母さん方もたくさんいて助けられていました。しかし今度のクラス替えでは前のクラスの仲間が少なくなったとヒデは話していたのです。困っているうちに時はたち、夏の移動教室も近づいて来てしまいます。今のままでは宿泊先で製剤を自己注射することはもちろん、松葉杖も使えず、参加することすらままなりません。

どうしようと困っていた私を決断させる出来事がありました。ある日、私の子どもと仲の良い母親仲間、そしてその子ども3人が一緒に遊んでいました。サッカーしようとA君が誘ってくれたのですが、ヒデは足の調子が悪かったので断ったのです。A君は「ヒデってつまんねぇ奴、みんな行こうぜ」とボールを蹴って行こうとします。するとB君が「A君、そんな言い方、ないんじゃねえの。俺も行かない」と言ってヒデと遊んでくれました。

その晩、B君の母親から電話があり「今日のこと、見てて親馬鹿かもしれないけど、わが息子ながら、やさしいと思ったわ」と言うのです。間もなくA君の母親からも電話。「うちの子、知らなかったの。ごめんなさい。後で話したら“俺だって知ってたら絶対、言わなかったよ。悪かったって謝っておいて”ですって」。そう、考えみればB君は同じクラスだったので親も子も病気のことを知っていたのですが、A君は母親とPTAで仲良くなっただけでヒデの病気のことは母親しか知らなかったのです。
やはり知ってもらうことが第一だ。そう気づいた私は子どもに訊きました。「どうする、みんなにちゃんとしたことを言う?決断しよっか。言うっていうならお母さん学校へ行って時間もらって説明するよ。でもあんたが嫌なら言わない」
しばらく考えて、子どもはぽつりと一言「言おうか・・・」「それなら、先生に相談してみる」

私は早速、担任の先生に連絡しました。「子どもの病気のことで、これから移動教室もあるし説明をさせて欲しい。小学校5年生の理解力は十分だと思うが、ほどほどが分からない年齢でもある。知らずに無茶して周りへ迷惑をかけてはいけないので是非、時間をいただけませんか」みたいな話をしました。お若い先生でしたが、幸いすぐに分かってくださって授業の前に15分ぐらいなら時間を作りますとのお返事を頂戴します。早速、子どもと相談ながら、病院から入手したいろいろな冊子やパンフレットを参考にし、絵を抜き出して、説明を準備しました。

当日です。教室を開けて入ると『ヒデのかあちゃんだ』のザワザワ声。負けじと大きな声で「おはよう!今日は先生に時間を少しもらってヒデの病気の説明に来ました。みんなヒデの病気のこと知ってる?知ってる子、はい、手を上げて」気分はもう担任教師。以前のクラスメイトがパラパラと手を上げるだけ。“そうか、クラス替えで病気のことを知っていた子こんなに少なくなっていたんだ。いろいろなことが起きても仕方がない”と思いつつ
「どんな病気だと思う?」
『休む』
『足が痛くなる』
『掃除もだめ』
『ドッジボールはできる』などの様々な返事。
「みんな、正解!でも、その時の具合によっていろいろ変わるんだよ」

夢中だったので正確には憶えていませんが、血友病とは血が止まりにくい病気だということをリレーしている子どもの絵などを使って説明し、出血をそのままにしておくと関節がだんだん悪くなって最後には動かなくなること、でも注射を打ってしばらく大事にしておくことで防げること、出血していない時は普通の子と同じことができることなどを説明しました。
『注射って誰がするの?』
「ヒデが自分でするんだよ」
『ほんと!すげえ〜』
ヒデが腕を見せると注射痕が点々と。
『おぉ』と子どもたち。
「でもね、完全に治すためには注射打って痛みが0になってから行けばいいんだ。でも、それじゃ学校をいっぱい休むことになっちゃうんだ。ヒデはみんなと一緒にいたいから、だから少しぐらい痛くでも松葉杖を使って行くんだよ。松葉杖はヒデの足なんだよ。わかってくれたかな?」
『わかった〜』
「それから、もうひとつ一週間後に移動教室があるけど山登りしたいって言ってるんだ。注射すればみんなと同じだから、朝ごはんまでの間に保健室に行って注射するけど、それも分かってね」 『は〜い』
こんな具合にお話しを終えました。

その後、心配した移動教室は何事もなく過ごすことができ、学校での生活も特に変わったことなく生活している様子です。ほっとしていると先生からお電話をいただきました。「話してもらってとてもよかった。子どもたちに優しさが見えてきた。ちょっと荷物を持ってあげたり、今日は痛くないの、それなら遊ぼうと誘ったり、こういうこともできる子どもたちなんだと私にも分かりました。クラスの雰囲気も変わりました。本当にお礼を申し上げたい」と・・・。

同級生の女の子が「すごくいい話でした。あれ以来、クラスの雰囲気もすごく変わりました。ヒデくんも大変だったけど、がんばっていたんですね。これからは皆で助け合っていきますから」と言う言葉も聞けました。どうやら、これまで主にかばってくれていたのは、以前、クラスが同じだった女の子たちだったようです。“これは息子がもてるような男になる兆し”と思い込んでいたのは親馬鹿の勝手な夢想。

いろいろ迷った末の決断でしたが、今は話して良かったと思っています。母親としては粗雑な方かもしれませんが、これからも必要があれば体を張って子どもを守りたいと思っています。今回の経験談が皆様のご参考と激励になれば、とても嬉しく思います。

参考:
  • Friends「学校に行こう」編(小島賢一)